
無数のタクシーたちが、あるいは、様々な地名のナンバープレートをつけたトラックたちが、くるくると環状線を回っている。流れは時によどんだり、早まったり――、それは俯瞰すると、あたかも血管を流れる血液のようにも見える。
自動車が、人や物資を運ぶ。具体的にどんな物資を運んでいるかは重要ではない。いずれにせよ、自動車たちは、何かを運びこみ、何かを運び出している。それは決して途切れることがない、東京を流れる血液たちだ。
その内側では、首都高が円をなし、さらにその内側には、山手線がまたしても円をなす。東京という街が日本の中心であるならば、その中心で自動車や電車は円を描き、東京をくるくると回転している。
その回転するものたちの周囲に街が重なる。無数の道路が伸び、地面の下には地下鉄が走る。無数の看板や光、ショップ、ショッピングモールがひしめきあい、そのあいだを、人が行き来する。
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、環状線や山手線、様々な血管が円を描いて回る、きらびやかな東京という街の中心には、しかしながら空虚な森が広がっていると指摘した。
空虚な森……。
そう、皇居の森のことだ。
ロラン・バルトに従っていえば、東京という街には中心がない。
環状線も、首都高も、あるいは山手線も、その中心までは手が届かない。血液の比喩をここで再度使うならば、東京の中心=心臓には、血管が接続されていないのだ。
中心に何もない国――すなわち、心臓がなく、ただ血管だけがある国――、ロラン・バルトは、日本を論じた『表徴の帝国』の中で、「意味の帝国」である西洋に対比する形で、日本を「記号の帝国」だとした。
記号の帝国とは、どういうことか。
それを知るためにも、音楽を例に出してみよう。
歌手がスタジオで歌い、レコーディングし、それがCDとして流通する。オリジナルとコピーの関係でいえば、歌手の声がオリジナルで、CDがそのコピーだ。
それは当然のことだ。けれども、実は僕たちは、もはやそうは考えなくなってしまっている。
ライブに出かけ、その声がCDの声と違う場合、あるいは歌い方が微妙に違う場合、僕たちは「何だか違う」と思う。CDではあれだけ伸びやかだった歌声が聴こえないとき、僕たちは、まぎれもない「本物」の歌手の声を生で聴きながら、「これは本物の声ではない」と思う。
そう、僕たちはもはや、流通するコピー=CDをオリジナルのものとして捉えるようになっているのだ。
同じ文脈で、ディズニーランドを例に出そう。ディズニーランドは、オリジナルだろうか、それともコピーだろうか。
ディズニーランドのオリジナルは、もちろんのこと、ディズニーのアニメだ。ディズニーランドとはつまり、アニメの世界をコピーした世界なのだ。
絵画にせよ、写真にせよ、ふつう、二次元が現実をコピーする。けれどもディズニーランドにおいては、現実(ディズニーランド)が、二次元の世界(アニメ)をコピーしている、という逆転が起こっている。これは先にあげた、歌手とCDの僕たちの受容の仕方と同じだ。
ロラン・バルトは要するに、日本という国を、このような世界だと規定したのだ。
歌手の声がもはやオリジナルではありえず、ディズニーランドのように、現実それ自体がコピーであるということ――、それをバルトは、中心のない街、東京に託して語ったのだ。
オリジナルなきコピー、すなわち、何も指し示さない「記号」の群れ、それを一般的に「シミュラークル」と呼ぶ。
もちろん、皇居の森を指して、「何もない」といい切れるのかどうか、そこには疑義が差し挟まれるべきなのかも知れない。
けれども、シミュラークルで埋め尽くされた国で育った僕たちは、ロラン・バルトの指摘に、あまり多くの反論を用意することができない。
心臓=中心を持たない僕たちは、「記号の帝国」を「意味の帝国」に変えようという意識をほとんど持たなかった。いや、むしろ僕たちは積極的に、シミュラークル化を肯定した。
そしてそれはある意味では成功した。東京は、そして日本は、ロラン・バルトの指摘を、まさになぞるように発展をした。さまざまな流行が生まれ、人々はそれを消費した。
現在の、ゲームやアニメに代表されるサブカルチャーの隆盛は「クールジャパン」と名付けられ、貴重な輸出品となった。
心臓がなく、ただ血管だけがある状態――。
2000年代の批評とは、一言でいえば、その心臓なき血管の束を、肯定することだった。
金持ち、ニート、美男美女、ブサイク……、本質的には、僕たちが住む世界はばらばらで、とても不条理にできている。がんばったやつが無残に死に、クソのようなやつが成功する、いいやつは裏切られ、取り柄のないおぼっちゃんが成功をする、そういう終わった世界だ。
けれども、本質的には差別にあふれたこの世界においても、血管の束「だけ」が、僕たちをつなげてくれた。本来交差しえないはずだった人々も、例えばアニメが好きだという一点では交差をした。
たくさんの、本来ならディバイドされた人々が、くるりが好きという一点で、宮崎アニメが好きだという一点で、同人誌を書いているという一点で、あるいはAKB48が好きだという一点で、あるいは同じ系統の服が好きだという一点で、次々と交差をした。
国民的な音楽や作家、テレビ番組――、すなわち「共通項」が消えた世界にありながら、部分的に、僕たちはたくさんの人々と交差した。心臓(共通項)がない世界で、僕たちは毛細血管(部分的な記号のつながり)を張り巡らした。
日本はこれまで、まさにバルトが40年前に見て取ったことの証明をしてきた国だ。
だが、2011年は、まさしくそれが崩壊した年でもあった。
僕たちが東日本大震災を通じて確認したのは、僕たちの「絆」が強固であるということではない。震災を期に絆を再認識した、などというやつはアホでしかありえない。
2010年に公開された映画『ソラニン』を思い出そう。主人公の恋人はいともあっさりと死ぬが、それによって絆が断ち切られたことを惜しむ、あるいは、生きていれば生まれたはずの絆を想像する、そうした手続きは一切描かれない。この映画では、恋人が死んだ「からこそ」、絆が生まれているのだ。
昨年、僕たちは、これまで生きてきた中で、恐らくもっとも大きな出来事を経験した。そして、バルトのいう「記号の帝国」のもろさを思い知った。
同じサブカルチャーを愛している、それが金持ちと貧乏人をつないでいる、そしてそれこそが新たな連帯である――、僕たちはそう信じたかった。けれども僕たちが目にしたのは、金持ちは原発から逃げられるが貧乏人は逃げられないという、きわめて残酷な、けれども当たり前の現実だった。
そして、震災は、僕たちの平和な暮らしというのが、いかに腐った構造に支えられていたのかを、極めて無防備にあらわにした。
昨年、僕たちが思い知ったのは、「絆の強固さ」などではなく、「絆のはかなさ」だった。歌手は何度でも歌えるが、CDは、破壊されればもう何も聴こえない。
破壊されたCDを聴こうとするのはもうやめよう。それは馬鹿である証明だ。
今さら歌手の歌声を聴こうとしてもそれは無理だ。歌手はとうの昔に死んでしまった。
僕たちにできることは少ない。
けれども、中心のない街は、中心を破壊されることがない。
僕たちの未来は、やや直感的にいえば、アメーバ式に広がるベニクラゲのような世界にある。
強固ではなく、むしろはかない、けれども、決して、消えることがない。
例えばそれは懐かしさのような――。